藤木総研・音楽学部
 
Bach, Beethoven, Bartok のクラシック3大Bから、
Prodigy, Police, Public enemy の洋楽三大P、さらには
Sakamoto R., Sharan Q., Sinohara T. の日本音楽三大Sまで、
音楽について思ったことを適当に書かせていただきます。
 

似たもの音楽2
 
 

前回にもちょっと紹介した、似たもの音楽の続編である。Nikiyaさんからの情報で、またもや「そのまんま」の例が見つかったので、ここに紹介する。
その例とは、海外ドラマの中ではかなり有名な「ナイトライダーのテーマ」と、バレエファンや吹奏楽ファンの間では結構有名なデリーベス(ドリーブ)のバレエ「シルビア」第三幕のファンファーレである。

それにしても、ここまで同じだと、アレンジか盗作のいずれかだと考えざるを得まい。


番組BGMの悲哀
 

 最近、イギリスのテクノグループ「ザ・プロディジー」( The Prodigy ) の音楽がテレビ番組のBGMに多く使われるようになった。プロディジーの好きな私にとって、それ自体は一応歓迎すべきことではある。
 だが、使用されているのが「発掘・あ@あ@大*典」のような、プロディジーの音楽とは全く無縁とも思われる番組の中であることが、私にはどうにも納得がいかない。堺@章の仕切る、のどかな生活情報番組の雰囲気の中で、暴力的ともいえるプロディジーの音楽は、完全に浮いてしまっている。
 例えば、「正しい@@の仕方」のようなものを紹介するときに "Smack my bitch up(俺のアバズレをひっぱたけ)" がBGMとして流れているのである。

 さらにひどい例もある。この御時節にも関わらず、平気でプロディジーの "Poison(毒)" という曲をBGMで流していた番組があったのである。
"I've gotta poison(俺は毒を持っている)" という歌詞を持つ曲を・・・。


似たもの音楽
 
 
 昨今、服部克久氏が、小林亜星氏の作品を盗作をしたとして話題になっている。
 服部氏の作品「記念樹」の出だしが「どこまでも行こう」に酷似しているというのだ。
 しかし私は、服部氏の作品が「どこまでも行こう」の盗作だなどとは、(服部氏の内心はともかくとして)客観的には到底いえないのではないかと考えている。

 そもそも、現在の音楽は、一部の例外を除いて、「長調」と「短調」というわずか2つの音階システムしか用いていない。また、拍子の種類も、よく用いられるのは2,3,4,6拍子の4つしかないのである。
 とすれば、あるメロディーが依存する基本システムは、2×4=8通りしかないのである。
 これでは、似た旋律が偶然に現れないわけがないではないか。

 もちろん、作曲家が故意にある作品を盗作(あるいは参照・引用)することも、中にはある。
 たとえば、モーツァルトは自分の「レクイエム」作曲の際にミヒャエル・ハイドンのレクイエムを参考にしていたと考えられている。
 この二曲は、どこがと特定するのも面倒なほど全体的によく似ているのだが、特に似ている部分を例示する。
(譜例1)
(レクイエム譜例)
 
下がM・ハイドン、上がモーツァルトのレクイエムの一部である。このように、この2曲の似方は、服部氏、小林氏の曲の似方の比ではない。しかも、この似方は、決して偶然ではないと思われる。なぜなら、モーツァルトは確かにM・ハイドンのレクイエムを聴いた、と言う記録が残っているからである。
 なお、興味のある方はM・ハイドンのハ短調レクイエムとモーツァルトのニ短調レクイエム(K.626)を聴き比べられるとよい。全曲が、笑えるほど似ている。
 

 ところで、このように一方が他方を明らかに真似して(参考にして)いる例も多いが、それ以上に多いのが、偶然の一致である。
 たとえば、先ほど挙げた旋律は、有名な「夜汽車」と言う曲とも、似ているのだ(譜例2参照)。
(譜例2)
(夜汽車譜例)

 また、ヨハン・シュトラウス二世のワルツ「芸術家の生涯」の一部分は、成田為三の「浜辺の歌」の出だしに似ている。前に述べたショパンと演歌の例も偶然の一致だろう。

 そして、とうとう、ある音楽が丸ごと他の音楽に一致していた、と言う例を私は発見した。
 まずは、ショパンのピアノソナタ第3番の最後に近い部分の音を聴いていただきたい。(これ)
 特に低音部の響きに、聞き覚えがないであろうか?

 上の音ではややわかりにくいかも知れないので、これを倍速にした上、さらに問題となる音を強調したバージョンも用意した。(これ)そう、ココアはやっぱり・・・・。 

 以上縷々説明したように、音楽の中で、あるメロディーが偶然他のメロディーに似ている、ということは大いにあり得ることであるし、その一例も、ここで紹介した以外にも山ほどある。
 とすれば、「記念樹」がたまたま「どこまでも行こう」に似ていたところで、それを盗作だと判断することは、いささか危険であると考える。なぜなら、この二曲以上に似た曲は、他にも多数存在する以上、それら全てが盗作とされるのであれば、盗作訴訟が巷間に溢れかえり、音楽界に大変な混乱をもたらしかねないからだ。

 私は良識ある司法当局の判断によって、小林氏の訴えが棄却されることを切に希望する。


 クラシックな妄想
-もしも彼らがまだ生きていたら・・-
 
 
 
アルカンは、自分の名前を聞いてペットフードを想像する人が多すぎることに辟易している。
 
バッハは、初めバックとかバッチなどと呼び間違えられることがとてもいやだったが、 今は慣れた。
 
バルトークは、趣味で収集した岩石や昆虫に名前を付けて毎日呼びかけるのを大変楽しみにしている。
 
ベートーベンが弁当屋をやることになった。キャッチコピーはもちろん「うんめー!」。
 
ベルリオーズは、いくら元医学生だからと言ってドクトル・ベルリオーズと言うあだ名はちょっと、と思っている。
 
ブラームスは、むっつりスケベである。
 
ケージ(ジョン)の最大の功績は、「4分33秒」を3楽章に分割した点である。
 
ショパンは、ラフマニノフの音楽が好きなのだが、自分で弾くと音量不足が目立って悲しい。
 
ハイドン(ミヒャエル)は、自分のレクイエムをモーツァルトに剽窃されたと主張して現在訴訟中。

ホルストは、「ホルストの沸く星」などというだじゃれを思いついて、自己嫌悪に陥る。
 
コダーイは、密かに駅前留学しようと思っている。
 
リストは、ロン毛の元祖が自分であることが、ちょっと自慢。
 
マーラーの心臓病を悪化させた最大の要因は、交響曲第6番に登場するハンマーによる振動である。
 
モーツァルトは、服部克久氏の気持ちが良く分かる。
 
ラフマニノフは、密かにジャイアント馬場のファンである。
 
ラヴェルは、自作をコダーイのものだと間違われても何とも思わないが、マーラーと間違われると激怒する。
 
シェーンベルクは、密かに自分の最高傑作は「自画像」だと思っている。
 
シベリウスは、テリー・サバラスとちょっと仲が悪い。
 
ウェーベルンは、ピアノではなく、ダイスとコンパスと定規で作曲している。音にすると聞くに耐えないので。
 


 楽器演奏で重要なこととは・・
 楽器演奏の上で最も重要なことがらの一つは、「脱力すること」であるという。

 実際、わたくしもホラの師匠に「こら、無駄な力が入りすぎやで」と注意を受けることがしばしばあったし、師匠がホラを吹くさまは、実にリラックスしていた。

 では、なぜ「脱力」なのか?
 実は、脱力しないで楽器を演奏することには、多くの弊害があるのである。
 まず第一に、余計な力が入ると、楽器演奏時に非常に疲れを感じやすくなる。極端な話だと、体に余計な力が入ってしまう癖のため、ピアノの練習曲を2ページも弾くと疲れてしまう方もあるという(「ピアノのためのフィンガートレーニング」藤本雅美著・ムジカノーヴァ191ページ)。

 さらに、余計な力が入ることは、演奏家生命をも極端に縮めてしまう。
 たとえば、バッハの時代のトランペットの演奏法は、「脱力」どころか、唇に力を込めることによって非常な高音程で超絶技巧を誇る、というものだったそうであるが、その過大な負担のため、トランペット演奏者は非常に若くして楽器の演奏が出来ない体になったという。
 また現代でも、脱力とは無縁の演奏法によって、あるいは脱力が不十分で体に過度の負担をかけてしまったため楽器演奏が出来なくなる演奏家は少なくないのである。

 さらに、余計な力の入った演奏では、音色がどうしても堅く、豊かさにかけるものとなってしまう。十分に「脱力」して楽器を演奏することによって、音色が柔らかく、豊かなものとなるのである。
 

 このように、楽器の演奏において、「脱力」は不可欠のものである。それゆえ、たとえばピアノ教則本の中には、次のようなことを書いているものもあるのである。

 “ピアノを演奏する上で最も根本的であると思われる身体の状態”とは何であろうか。それは、体全体の“脱力感”を納得した状態であると私は強く確信している。脱力の状態を知り、そこからはじめて全身−特に腕、手首、指−のコントロールの可能性が生まれる。“原点の状態”を体得することが、他のあらゆる状態へ到達することの芽生えになるからである。
(前掲書・7ページ)
 しかし、残念ながら「脱力感」は、すべての人がすぐに会得できるものではない。どうしても体に余計な力が入ってしまう、という人はいるものである。そのような人は、まず「脱力感」を経験してみることが重要である。

 そこで、そのような方のために、わたくしはこちらのサイトを強く推薦したい。

 このサイトで「脱力」を体得した暁には、あなたの楽器演奏の腕、そしておそらく日常生活は、以前とはひと味違ったものとなることであろう。

(Special Thanks to Kimさん<m(__)m>)

*インターネットエクスプローラー3.0での表示(文字化け)を正しくするため、
嘘競演のネタは、別の場所に引っ越ししました。
こちらをクリックすると、ご覧頂けます。

ショパンの調べ
 日本人は、ショパンが好きなのだという。クラシック好きの中でショパンを聞かない人は少ないであろうし、クラシックファンでなくてもショパンは好きと言う人は多いだろう。
 また、ピアノの製造で有名な浜松市が世界的なピアノコンクールである「ショパンコンクール」を誘致しようとした話は有名であるし、これに対してショパンの故郷であるポーランドのショパン協会も「日本人は我々と同じくらいショパンを愛している」と発言したとかしなかったとか・・。

 では、なぜ日本でこれほどまでにショパンが愛されるのか。
 これには、例えばショパンの旋律に見られるポーランド的な要素に東洋の民謡に通じるものがあるからとか、39歳で死に、決して幸福とは言えない人生を送ったショパンが、短命・薄幸な人を愛する我が国の国民性に愛されているとか、いろいろなことが言われている。

 しかし、私は、ショパンが我が国で愛されていることには、もっと根本的な理由があると考えている。
 ショパンの音楽は「演歌」なのである。

 まず、彼は「船唄」という題名の曲を作曲しているのである。
 この曲は、イタリアのベネチアの、陽気な船頭の歌に題材をとっているのだが、作曲した頃ショパンと愛人のジョルジュとの破局が近付いていたためか、何とも言えない寂寥感が漂う曲である。ひとりでしみじみ飲みながら聞くには恰好の曲である。

 そして、それ以上に彼の音楽と演歌との共通性が明確に現れている曲が、彼の「ピアノ協奏曲第一番」である。この曲を聞いたほとんどすべての日本人は、ある演歌の名曲を想像せずにはいられないという。

 ショパンには、北国の寒さと女心の未練がよく似合うのである。

 ちなみに、この曲がどういうものか知りたい方のために、こちらに、問題となりそうな部分の音を用意した。作者の技量のなさからお聞き苦しいかも知れないことを、あらかじめお詫びする。
 なお、わかりやすくするためにショパンの原曲を若干(随分?)変えている。
 

 

偶然音楽
 
 偶然音楽(チャンス・オペレーション)というものがある。音楽の一部または全部を偶然にゆだねる音楽である。ただ、一般に、偶然音楽が話題となるのは演奏の過程であり、作曲までも偶然に頼った音楽というものは、あまり聞いたことがない。

 そこで、私は作曲にチャンスオペレーションを使ってみた。作曲法はいたって簡単、Singer Song Writer  Lite  という楽譜打ち込みソフトを使い、楽譜入力画面でデタラメにマウスをクリックした。作曲時間約5分である^^;

 そして出来上がった曲が「これ」だが、思ったよりは音楽に聞こえるような気がする。
 なお、ヤマハのMidPlugを使うと、最後の音が最初の音とちゃんと繋がり、「常動曲」として楽しむこともできる。
(2回目辺りからだんだん嫌になるが・・・)
 

 

 
音楽と私(実話)
 私はホラ吹きである。といっても、この「ホラ」というのは実在の楽器のことである。

 私がホラと出会ったのは中学一年生のときであった。吹奏楽部でトランペットにしようかホラにしようか迷った挙げ句、ホラを吹くことにきめたのである。

 以来十数年に渡って、私はホラを吹きつづけてきたが、その間何度となく最初の選択が誤っていたのではないかと悔やんだものである。
 まず第一に、ホラはギネスブック認定の、世界で一番難しい楽器のひとつらしいことがわかった。これは、ホラの管が、同じ音域の他の楽器にくらべて異常に長いためである。このため、ホラは非常に音をハズしやすい楽器なのである。
 つぎに、ホラはかなり大きな音で鳴る楽器なので、演奏中に音をハズすと非常にひんしゅくを買う。音のハズしやすさと相まって、ホラは非常にひんしゅくを買う危険が大きい楽器であると言えるかも知れない。
 最後に、ホラは数人で吹くところに面白さがある。他人とホラの掛け合い(アンサンブルともいう)をするところに、ホラ吹きの醍醐味があるといって良い。ピアノなどと違って、ホラを一人で吹くのはちょっと寂しいのである。
 私が嘘の掛け合いのできる嘘屋本舗に好んで参加するのは、あるいはこの経験の影響かも知れない。

 なお、最近は多忙にかまけてホラを吹いていない。ホラ吹きとしての腕前を維持するには毎日の基礎練習が欠かせないが、今の私にその余裕はないからである。
 そして、その代わりに「嘘つき」としての「ホラ吹き」に、私は目覚めたのである。

 なお、ホラの音楽を聞きたい方は、キングレコードの「FIREBIRD」レーベルから、「ホラ・スタッカート」(KICC 62)というCDが出ている(た)ので、興味のある方はCD店などに各自問い合わせられたい。

(参考資料:CDジャケット)
CD:ホラ・スタッカート
  

背景は、アルカンの「大ソナタ「4つの世代」(Grande Sonate : Les Quatre Ages)」より、「20歳(Vingt ans)」の一部。


was used in designing background image and in recording MIDI data.

 
 

トップページに戻る